はじめに
印象派の巨匠クロード・モネが生み出した「睡蓮」の世界は、数ある彼の作品の中でも特に人気があります。最近読んだ『図説 モネ「睡蓮」の世界』は、その奥深い芸術にさらに魅了されるきっかけとなりました。彼が睡蓮を描き続けたのは、パリから日帰りで訪れることができる美しい村、ジヴェルニー。モネが愛したこの場所を訪れ、彼の芸術の息吹を感じたいと思う人も多いのではないでしょうか。
今回は、モネが晩年を過ごしたジヴェルニー、そして彼が過去に暮らしたもう一つのフランスの村、ヴェトゥイユを紹介します。
ノルマンディーの港町ルアーブルで生まれたモネは、パリでの生活を経て、1870年代後半からノルマンディーの静かな村々を転々としながら、創作活動に没頭しました。その中でも、ジヴェルニーとヴェトゥイユは、彼の芸術と人生に深く関わる特別な場所です。
ヴェトゥイユでのモネ
モネは、1878年9月から1881年までの約3年間、セーヌ川沿いの静かな村ヴェトゥイユに暮らしていました。この時期、彼は30代後半。芸術家として重要な転換期を迎えていました。
それ以前、モネはパリ近郊のアルジャントゥイユに住んでいましたが、当時、経済的に厳しい状況に直面していました。印象派のリーダー的存在でありながら、作品の売れ行きは芳しくなく、家賃の支払いも困難に。友人のエドゥアール・マネから借金をして家賃を清算し、パリを離れる決断をします。彼が選んだ新たな住まいが、セーヌ川を下った小さな村、ヴェトゥイユでした。
ヴェトゥイユは、パリの喧騒から離れた静寂に包まれ、モネにとって理想的な創作の場となりました。自然豊かなこの地で、モネは日々の生活に苦しみながらも、光と色彩に対する鋭敏な感覚を研ぎ澄まし、新たな表現技法を模索していきました。この時期に描かれた作品には、彼の独自の色彩感覚がより一層際立ち始めます。
ヴェトゥイユでの生活は、モネの絵画スタイルがより成熟し、芸術家としてのアイデンティティを確立する大きな契機となりました。経済的困難にもかかわらず、彼の創作意欲は衰えることなく、この地で数々の傑作を生み出したのです。
ヴェトゥイユへの旅
ヴェトゥイユは、パリから北西に約60kmほどの所に位置します。
僕はパリのサン・ラザール駅から電車に乗り、マント=ラ=ジョリーに向かい、そこから友人の車でヴェトゥイユを目指しました。もちろん距離的には、パリから車でも十分行けます。
ヴェトゥイユのモネ宅
ヴェトゥイユ周辺は、セーヌ川が蛇行している地域で、村自体はセーヌ川右岸にあたります。モネと家族が住んでいた家は、現在クロード・モネの名を冠した通り沿いにあります。
この辺りはとてものどかです。車でしばらく走るとモネの暮らした家の前に着きます。車を降りてゆっくり散策してみるのもいいですね。
家の壁や周辺にはモネの説明が書かれています。彼の住んだ家の事、家の周辺にキャンバスを置いて描いた作品の紹介などなど。
ヴェトゥイユ時代のモネ
モネと彼の家族がヴェトゥイユに移り住んだ時期は、彼の人生の中でも特に困難な時期でした。経済的苦境の一因は、モネのパトロンであった実業家エルネスト・オシュデの事業が破綻したことにあります。これにより、モネはこれまで住んでいたパリ近郊のアルジャントゥイユを離れ、より田舎のヴェトゥイユに移らざるを得なくなりました。
さらに複雑だったのは、モネ一家が移住する際に、オシュデ氏の妻アリスと彼女の7人の子供たちも同行したことです。アリス・オシュデとモネの間には、不倫関係の噂が絶えず、その同居は当時の人々にとって奇妙なものに映ったことでしょう。ひと夏の仮住まいとして始まったヴェトゥイユでの生活は、結果として3年もの長期滞在に変わり、その間にモネは幾多の試練に直面します。
特にモネを苦しめたのは、妻カミーユの病状の悪化でした。彼女はヴェトゥイユ滞在中に健康を崩し、モネの困窮した経済状況では、満足な治療や看病を受けさせることができませんでした。1879年にカミーユが亡くなったとき、モネはその喪失感と罪悪感に苛まれました。オシュデ夫人との関係もまた、複雑な心境を生んでいたのは間違いありません。
モネがこれほどの葛藤を抱えながら過ごしたこの地で、彼は日々の生活と向き合い、作品を生み出し続けました。現在でもヴェトゥイユには、モネがかつて住んでいた家が残っており、その家を眺めるとき、彼を取り巻いていた人間関係や葛藤の記憶が甦るようです。
この静かな村で、彼は芸術家としての成長を遂げる一方で、個人的な苦しみとも闘い続けました。その影響は、彼の作品に深く刻み込まれているのです。
モネの家に泊まれる!
実は、この建物に泊まる事が出来るみたいです。僕は泊まリませんでしたが、機会があれば是非ゆっくり滞在してみたい。のどかな地域で、景観もよく、静かにモネに浸れるでしょう。それにフランスの田舎はとても美しい。
詳細は、下記のサイトから。
http://escale-chez-un-impressionniste.com/chambre-double-limpression-bleue/
この地域は、日本の観光ガイドブックや、その他案内にもあまり載っていないため、現地に行くのは少し大変かもしれないです。しかし、フランスの田舎に来たなー!という旅情に浸れること間違いなしです!
ジヴェルニーでのモネ
モネは1883年から1926年に亡くなるまでの約43年間、ジヴェルニーに住みました。彼はこの地で自らの理想の庭を整え、特に「睡蓮」シリーズをはじめとする多くの作品を創作しました。
モネの代表作として知られる「睡蓮」シリーズは、単なる自然の風景を描いたものではありません。彼が晩年を過ごしたジヴェルニーの庭に、自らの手で作り上げた「理想の風景」を描いたものです。
モネは庭師と共に庭の設計を細部にまでこだわり、池を掘り、そこに様々な品種の睡蓮を植えました。この庭は、彼の創作活動における重要な一部であり、アトリエと同様の役割を果たしていたと言っても過言ではないでしょう。
「睡蓮」シリーズに見られる水面に映る光と影、そして睡蓮の花々は、モネが追求した「水と光の共演」の象徴です。彼は水の変化する表情に魅了され、その一瞬一瞬を捉えるために、異なる時間帯や季節に応じて無数のバリエーションを描き続けました。ジヴェルニーを訪れると、まさにその絵画の中に足を踏み入れたような感覚を覚えます。静かに流れる水、柔らかに揺れる睡蓮、そしてそれらに反射する光—それらはすべて、モネが追い求めた「理想郷」として、現代の私たちにも変わらず感動を与えてくれるのです。
モネが「睡蓮」を描き続けた背景には、彼自身の人生観や美意識が深く反映されています。単に自然を写実的に描くだけでなく、彼が作り上げた人工的な庭の中で、自然が織りなす調和を自らの理想として具現化したのです。ジヴェルニーを訪れ、その庭園を目の当たりにすると、彼が作品に込めた美と自然への探求がいかに深かったかが実感できます。
モネと日本
19世紀のフランスでは「ジャポニスム」と呼ばれる日本文化ブームが広がり、モネもその影響を受けた芸術家の一人でした。
彼は特に浮世絵に魅了され、数多くのコレクションを自宅に収集します。モネの家を訪れると、その浮世絵コレクションが家の中に展示されているため、彼が日本文化に親しんでいたのを見ることができます。彼の芸術における異文化への深い関心を示す興味深い要素ですよね。
「睡蓮」シリーズには、日本の影響が色濃く反映されています。特に、日本風の太鼓橋が描かれた作品は、日本人の目を引く特徴的なモチーフです。モネはジヴェルニーの庭に、自らの理想を追求しながら日本風の太鼓橋を設置し、その橋を繰り返し描きました。彼の作品における橋は、単なる風景の一部以上に、日本文化への憧れと尊敬が込められたシンボルとも言えるでしょう。
ジヴェルニーのモネの家と庭を訪れると、彼の日本趣味が随所に見られ、私たち日本人にとっては一層親しみを感じることができます。
モネが自らの作品に取り入れた日本の美学と、その影響を受けた庭のデザインは、フランスの田園風景と絶妙に融合し、独特の魅力を生み出しています。モネが遠い異国の文化に深く影響を受けながら、彼自身の創造的なビジョンを育んでいった過程は、日本文化の国際的な広がりを感じさせてくれます。
※ 原田マハさんの小説ジヴェルニーの食卓 。印象派の画家を取り囲む女性が沢山出てきます。フランスらしいというか、なんかオシャレな感じの本です。気分に浸れる事間違いなしです。
モネの家と庭は、花が咲く暖かい時期に一般公開されます。よって、11月から3月末までは非公開となっているため、行く前に事前チェックするのが望ましいです。庭園に咲き乱れる花々は、しっかりと管理されていて、とても綺麗に咲き誇っています。
※事前に開園しているかチェックした方がいいです。
庭園に咲いている花々も、モネの植えた花や趣向も、しっかり考慮され今に伝えられているそうです。
池に浮かぶ睡蓮と庭に咲く花々を見るとき、まさに「彼の絵画世界に入り込んだかのような体験」をすることができます。
モネのファンならずとも是非とも訪れたい場所ですね。
Photo and Writing by Hasegawa, Koichi and Shino
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