ゴッホ・シリーズ。今回は彼の足跡を辿ってフランスの小さな村オーヴェル・シュル・オワーズと彼の下宿を紹介します。
この村で最後をむかえたゴッホは、短い滞在時間にも関わらず数々の傑作を生み出しました。オーヴェルは「ゴッホの旅」として、今も沢山のアートファンが訪れます。
オーヴェル・シュル・オワーズへはパリから電車で1時間
オーヴェルはパリから30キロ弱の距離。当時もパリからはそんな時間がかからずに行けたと思います。1846年には鉄道が開通します。今もパリ北駅から電車が出ているので、のんびりと小旅行と行きたいですね。
時間のない人や個人で行くのに自信がない人は、パリから日本人向けのバスツアーもオススメ。
ロケーション
オーヴェルにはパリからも日帰りが十分できる距離です。1日かけてゴッホの旅をしてみよう。
ゴッホとオーヴェル
ゴッホの最晩年である1890年。彼はオーヴェルにこの年の5月から7月までの2ヶ月ほどしか暮らしていません。でも、あのゴッホが最後に住んだ場所として多くの人が記憶する村です。
オーヴェルに着いたら村役場を目指しましょう。ゴッホの最晩年の作品のひとつである『オーヴェルの村役場 』(1890) のモデルである村役場は、現在も現役で使用されている建物なんです。
この役場のすぐ近くにゴッホが暮らした下宿があります。村役場の近くといっても、とてものどかな場所に彼は暮らしていたのが行くとわかりますよ。
ゴッホの人生で大きな存在である弟テオ。彼がそれまで温暖な南仏にいた兄に、より故郷オランダに近い気候のこの村での静養を勧めました。また、精神科医で絵画にも造詣のあるポール・ガシェも住んでいたことも理由の一つでした。
※『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』は彼の妻であるヨーが語る義理の兄であるゴッホの生涯。興味深い内容です。必読。
ちなみにオーヴェルは、ドービニーやセザンヌにもゆかりのある村で、ガシェ医師も印象派の連中と交流があったそう。ガシェ氏のコレクションは後にルーブルへ寄贈されるんですが、充実した印象派コレクションだったそうですよ。
ゴッホは2ヶ月間で、我々のよく知る傑作を約70作品制作します。その中には、『オーヴェルの教会』(1890年 6月)、『カラスのいる麦畑』(1890年 7月) などの代表作も含まれます。
ゴッホの下宿先を訪ねてみよう
さて、ゴッホの下宿先は町役場のすぐ近くに「ゴッホの家」Maison de Van Goghとして春から秋ぐらいぐらいまで公開しています。
この場所に来ると、彼が最晩年に暮らした部屋と作品のモチーフとなった村役場の両方を見学できますね。
一階はラヴー亭 (Auberge Ravoux) としてレストラン営業しています。19世紀のまま残っているため、ここでの食事も雰囲気があってとてもいいですよ。当時はワインを飲ませていたバーみたいなところだったそうです。今ももちろんワインが飲めますよ。
僕が行った時はゴッホの部屋の見学だけで、食事はしなかったんですが、とても美味しいと聞いたことがあります。今度は食事したいですね。
ゴッホの下宿にて
さて、ゴッホが最後住んでいた部屋を紹介します。
ゴッホはオーヴェルでガシェ家族との交流をはじめ、幸せな時間も過ごします。しかし、彼は再び絶望感に襲われ、しまいには自殺を図ります。
※ガシェ医師については別記事にも書きました。
この部屋は、彼が住んだ部屋でもあり、亡くなった部屋でもあります。
ゴッホの最後
1890年7月27日、ゴッホは拳銃で胸を撃ちます。この拳銃はどこで手に入れたかは、不明みたいです。自殺した時は、拳銃の弾丸が心臓をそれたため、即死を免れました。失神してから目が覚めた彼は、まだ自分に息があることに気がつきます。そして、現場から自力で下宿に戻り、二階にある部屋まで戻ります。下宿の人もゴッホの帰りが遅いのと、様子が変なところからゴッホの部屋に駆けつけたそうです。すぐに地元の医者を呼び治療にあったそうです。
ゴッホは、そこでパリにいるテオとガシェ医師を呼ぶように頼んだそう。
手当をした医師が診察したときは、弾丸が胸の中にまだ残っていたのが確認されました。当時の医療的観点から、手術をするより、そのまま弾丸を残すのが通例だったみたいです。
そして、翌日の昼にはテオが到着します。涙ながらにゴッホは、テオに語りかけたそうです。テオはゴッホの展覧会を企画しているなど、明るい話題を続けたそうです。
ゴッホはテオの腕に抱かれたまま日付が変わった夜半に亡くなります。まさに壮絶な彼の最後でしたが、愛する弟テオの腕の中で息を引きとるという一つの願いは叶えられました。
ゴッホの部屋を訪ねて感じたのは、とても小さな部屋だということ。彼は最後自力で二階の部屋まで帰りましたが、生きて部屋を出る事はもうなかったんですね。
37歳の人生は短いものでしたが、ゴッホの作品と人生は今なお多くの人の胸を打ちます。
Photo and Writing by Hasegawa Koichi and Shino
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