ルーヴル美術館のサモトラケのニケ|勝利の女神と古代ギリシャ彫刻を旅する

サモトラケのニケが表す、女神の降り立つ瞬間

《サモトラケのニケ》の魅力は、何よりもその動きにある。

女神は、船の舳先に降り立った直後のように見える。胸をわずかに前へ出し、身体をひねり、翼を大きく広げている。まるで強い海風が正面から吹きつけ、その風を全身で受け止めているかのようだ。

大きな鳥が着地するとき、翼を広げて空気をつかむ。その瞬間を思い浮かべると、この像の姿勢がよくわかる。

女神は静止しているのに、像のまわりには風が吹いているように感じられる。

ここに、ヘレニズム彫刻のすばらしさがある。身体そのものだけでなく、身体を取り巻く空気や、目に見えない力まで表現しようとしているのである。

ルーヴルでこの像の前に立つと、正面から見るだけではもったいない。少し横へ回り、後ろへ回り、階段の下から見上げてみる。角度が変わるたびに、女神の動きも変わって見えてくる。

ある角度では、今まさに降り立ったように見える。別の角度では、次の瞬間にふたたび飛び立つようにも見える。

美しい彫刻は、見る位置によって表情を変える。《サモトラケのニケ》は、そのことをはっきり教えてくれる作品である。

風をまとう衣|キトンの美しい表現

《サモトラケのニケ》を見るとき、まず目を奪われるのは翼かもしれない。

けれど、しばらく見ていると、衣の表現のすばらしさに気づく。

ニケは、薄い衣を身にまとっている。このような古代ギリシャの衣服は、一般にキトンと呼ばれる。布は身体を覆っているはずなのに、風と水分を含んだように、胸や腹部、脚のかたちを浮かび上がらせている。

布でありながら、身体の動きを隠さない。

むしろ布があることによって、身体の動きがより強く見えてくる。衣のひだは、ただ装飾として刻まれているのではない。風の方向、身体のひねり、降り立った瞬間の勢いを伝えている。

この表現は、本当に見事である。

天からふわりと降り立つ優雅さと、海風に打たれる力強さ。その両方が、衣のひだの中に刻まれている。

窓から差し込む光に包まれるサモトラケのニケ
窓から差し込む光が《サモトラケのニケ》を包む。Photo by HASEGAWA, Koichi

翼の美しさ|欠けた彫刻が持つ力

僕が《サモトラケのニケ》で特に好きなのは、翼の部分である。

美術書で初めて見たときも、その翼の美しさに心を動かされた。実際にルーヴルで目にすると、写真では伝わりきらない量感と広がりがある。

翼は大きく開かれ、羽の一枚一枚が強いリズムを作っている。身体の動きと翼の広がりが一体となり、像全体が前へ進むような力を持っている。

《サモトラケのニケ》は、完全な姿で残っているわけではない。

頭部も腕も失われている。発見されたときも断片的な状態であり、その後、修復と復元を経て現在の姿になった。

しかし、この欠けているという事実が、作品の力を弱めているわけではない。むしろ、失われた部分があるからこそ、鑑賞者はその先を想像する。

どのような顔をしていたのか。腕はどのように伸びていたのか。女神は何を告げようとしていたのか。

答えが完全には与えられないからこそ、この像は見る者の中で動き続ける。

サモトラキ島|勝利の女神が発見された場所

《サモトラケのニケ》は、エーゲ海北東部に浮かぶサモトラキ島で発見された。

サモトラキ島は、エーゲ海の島々の中でも、華やかな観光地として広く知られている場所ではない。山がちの地形を持ち、フェンガリ山に代表される険しい自然が島の印象を形づくっている。

しかし古代、この島には重要な聖域があった。

サモトラキ島には、神秘的な宗教儀礼が行われた聖域があり、《サモトラケのニケ》もその神域から発見された。つまり、この像はただ美しい彫刻として作られたのではなく、宗教的な場に奉納された作品だったのである。

ルーヴル美術館で見る《サモトラケのニケ》は、パリの華やかな空間に置かれている。

けれどその背後には、エーゲ海の風、島の山々、古代の信仰、海戦の記憶がある。そう考えると、この像はパリにありながら、遠いギリシャの島へと私たちの想像を連れていく。

エーゲ海に浮かぶ島々
エーゲ海に浮かぶ島々。Photo by HASEGAWA, Koichi

《サモトラケのニケ》を見るということ

《サモトラケのニケ》は、古代ギリシャ彫刻の傑作である。

けれど、その魅力は「有名な作品だから見る」というだけでは終わらない。

この像の前に立つと、いくつもの時間が重なって見えてくる。

海戦の勝利を祝う古代の人々。サモトラキ島の聖域に奉納された女神。失われた頭部と腕。パリへ運ばれ、ルーヴルの階段の上で多くの人々を迎える現在の姿。

作品は、ひとつの場所に固定されているようでいて、実はいくつもの場所を背負っている。

サモトラキ島、古代ギリシャ、エーゲ海、そしてパリのルーヴル美術館。

《サモトラケのニケ》を見ることは、そのすべてを一度に旅することでもある。

ルーヴルを訪れるなら、ぜひ階段の下からこの女神を見上げてほしい。

翼を広げ、風をまとい、船の舳先に降り立つ勝利の女神。

その姿は、古代から現代へ向かって、今も静かに飛び続けているように見える。

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筆者について

長谷川浩一|美術史家・講師・執筆

旅先で出会った街角の光、夜の気配、建築や風景に残る時間の層を、
写真と言葉で記録しています。
東京では西洋美術史講座 Edogawa Art Salon, Tokyo を開き、
noteでも美術や旅にまつわる文章を書いています。

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