はじめに
今回紹介するのは、アルプスの象徴とも言えるスイスの名峰、マッターホルン。この山は、その鋭い頂を持つ独特の姿で知られ、世界中の登山家たちの憧れの的となっている。標高4,478メートルのこの山は、見る者を圧倒するだけでなく、登る者にとっても厳しい試練を与えてきた。1865年の初登頂以来、数多くの登山家たちがこの険しい岩峰に挑み続け、歴史に名を刻んできた。今回は、そんなマッターホルンの美しさと、その背後にある登山の歴史にスポットを当てて紹介する。
「人間の能力の限界を極める」。あらゆるスポーツ競技は、常にその限界に挑み続けている。だが、ただやみくもに身体を酷使すれば良いというものではない。丈夫な体を作るために暴飲暴食するのでもない。人類が蓄積してきた経験や知識、そして科学、医学、栄養学、さらには心理学までを駆使し、人は自らの限界を突破しようとしている。
そんな「人間能力の限界突破」というテーマで、僕が特に魅了されているのが登山だ。標高数千メートルという極限の環境で、人間はどこまで自分を追い込むことができるのか。今回紹介するのは、その限界に挑み、日本人で初めて厳冬期のマッターホルン(4,478m)に挑んだ登山家、小西正継。そして、その挑戦の舞台となった名峰、マッターホルンである。
スイスへ旅をする機会があれば、彼の登山記を読んでから、マッターホルンを眺めてみることをオススメします。凄いですよ。
目次
下手な啓発本より登山家によるエッセイが凄い
「厳冬のマッターホルン北壁を登るには、勇気と強靱な体力、鉄の意志、そして自分自身が絶対に登れるんだという強い信念を持つこと、すなわち精神で大北壁を圧倒することが必要であった。」
—『マッターホルン北壁 日本人冬期初登攀 (ヤマケイ文庫)』小西 政継著
3大北壁の一つであるマッターホルン北壁
見た目こそ美しいマッターホルンだが、いざ登ろうとすると、その現実は極めて過酷だ。特に北側の壁は、標高差1,200メートルに及ぶ険しい岩壁で、登山家たちにとって最大の試練である。
しかも、この北壁は昼間でも太陽がほとんど当たらない氷壁。冬にはその厳しさがさらに増し、まさに死と隣り合わせの氷と厳寒の世界が広がっている。
小西正継さんは、そんな北壁を冬に登ることを決意した。その壮絶な挑戦の前夜の記述が特に印象深い。どれほどの準備を重ねた小西さんであっても、死の恐怖は拭えない。大病を克服し、何年もかけて登山の訓練を重ね、ついにアルプスの難関に挑む日が来た。しかし、その前夜、彼が向き合ったのは自らの内なる恐怖であり、己の心との闘いだった。
「アルピニストというものは、自分自身の心の中にある弱さ、感情の弱さを克服しなければならないものなのであろう。冬の北壁の勝利をわが手に握りしめたいのなら、まず最初に自分の心に打ち勝たねばならないのである。」
—『マッターホルン北壁 日本人冬期初登攀 (ヤマケイ文庫)』小西 政継著
ツェルマットから見るマッターホルンの威容
登山鉄道に身を任せ、遠くツェルマットの地にたどり着いた瞬間、旅の疲れも吹き飛ぶ。駅を出て数歩進むと、突如目の前にそびえ立つマッターホルン。その瞬間、心を奪われる。威風堂々としたその姿は、まるでアルプスの王者が自らの存在を誇示しているかのようだ。
スイス・アルプスを代表するこの名峰には、世界中から観光客や登山家たちが集い、ひと目その姿を目にしようと熱い視線を注ぐ。ツェルマットの街並みと共に広がる大自然のパノラマは、ただ見上げるだけでも旅の醍醐味を感じさせ、心に深く刻まれる。季節ごとに異なる表情を見せるこの山は、挑戦する者をも迎え入れ、かつてない冒険へと誘っているようだ。
小西さんの著書にも記されているが、ツェルマットの麓から、登山者やアイスクライマーたちがマッターホルンへ挑む姿が望遠鏡でよく見えるそうだ。ツェルマットの街中でも、双眼鏡を手に、登山家たちのアタックをじっと見守る人々が少なくなかったそうだ。小西さんが初めてマッターホルンに視察登山に訪れた際も、アルペンジャーナリストや観光客、そして地元の人々がその一行の様子を興味津々に見物していたという。
しかし、厳しい山に挑む中で苦戦を強いられた小西さん一行。その姿を見た一部の観客からは、「北壁アタックを諦めたのではないか」と思われた。ツェルマットに降りた後も、町の人々の冷ややかな視線が彼らに突き刺さる。「日本人が冬にあの北壁を登るなんて無理だ」と、まるで挑戦を嘲笑するかのような雰囲気が漂っていた。
そんな状況の中、小西さんたちはどれほど悔しい思いを抱えたことだろう。「なにクソ!」という気持ちを胸に、彼らは一層の決意を固めたに違いない。
岩壁を命がけで登っていく小西さんたち。その道は、まさに生死を賭けた挑戦だ。
日が沈むと、漆黒の夜と厳寒が彼らを襲う。休息の時間には、凍りついた岩壁にハンモックを吊り、寒さに震えながら朝を待つ。足元に広がるのは真っ暗な奈落の底。ハンモックが外れれば、落ちるのは数千メートルの深淵だ。まさに極限の世界。
そして彼らは、凍てつく氷の北壁を命を削りながらアタックした。厳しい寒さの中、6日間にも及ぶこの壮絶な登頂記は、小西さんの著書で詳しく語られている。読めば、マッターホルンという山がこれまでとは全く違う姿で迫ってくるだろう。
高尚なアルピニズムというよりも。
「山とは金では絶対に買うことのできない偉大な体験と、一人の筋金入りの素晴らしい人間を作るところだ。未知なる山との厳しい試練の積み重ねの中で、人間は勇気、忍耐、不屈の精神力、強靱な肉体を鍛えあげてゆくのである。登山とは、ただこれだけで僕には充分である。」
—『マッターホルン北壁 日本人冬期初登攀 (ヤマケイ文庫)』小西 政継著
小西さんは、胃の病やヘルニアといった自身の身体的な試練を乗り越え、ついにマッターホルンの北壁へと挑んだ。その姿勢には、深い感銘を受ける。私たちの人生にも、小西さんにとってのマッターホルン北壁のような、大きな挑戦があるのではないだろうか。それは目に見える山ではないかもしれないが、心に描く目標や夢、越えたい壁として、確かに存在している。
僕自身にも、そんな「マッターホルン北壁」のような挑戦がある。まだ登りきる道の途中だが、この山を越えることが自分にとっての生きがいである。
もしツェルマットに行くことがあったら、ぜひ小西さんたちが厳寒の冬に挑んだマッターホルンの北壁を眺めたい。あの雄大な山を前に、自分の「山」への挑戦を再確認したいと思う。
小西さんのマッターホルンの次にオススメする冒険紀行
登山家による登山記は沢山あるが、中でも名著は植村直己さんに多く存在する。彼は、伝説的な登山家であるのと同時に、魅力的な文章を書く人だ。小西さんの「マッターホルン」と共にオススメします。
最初に紹介するのは、「エベレストを越えて」。植村さんが、エベレストに登った時の記録。登山には、様々な困難とドラマがあるのが伝わってくる。さすがに、我々がエベレスト登山というわけには行かないが、読むだけでエベレストの魅力に取り憑かれます。
名著「青春を山に賭けて」。最初は日本にある山への登山も苦労したところから、世界の植村になる過程が描かれる。とても面白いので、影響を受けた人も多いはず。
「極北に駆ける」は、上村さんの北極への挑戦が綴られてる。とにかく凄まじい。一気に読んでしまう面白さだ。
Photo and writing by Hasegawa, Koichi
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