はじめに
今回のテーマは、古代ギリシャ。聖地デルポイとギリシャ彫刻を代表する傑作の一つである『青銅御者の像』を紹介する。
ギリシャは美しい。エーゲ海に浮かぶ島々も、内陸の大地も、古代の文化の名残を今なお静かに伝えている。聖地デルポイは、かつて神託が響き渡った場所で、今やその壮麗さは遺跡となりながらも、古代の美しさを今に伝えている。そして、紹介する『青銅御者の像』—その静謐でありながら力強い姿は、時代を超えて見る者を魅了し続けている。
この遺跡と彫刻が、あなたを古代の世界へと誘う旅のきっかけとなれば嬉しい。永遠に輝くギリシャの文化を通じて、悠久の時を感じてみて欲しい。
デルポイの聖域:古代世界の『地球の中心』
アテネからデルフィまでは、高速バスでおよそ3時間強。そう、なかなかの長旅だ。でも、バスに揺られている間に、風景は次第に変わっていく。アテネの喧騒を抜けてしばらく走ると、いつの間にか山間に入り込んでいる。遠くには、まるで神々がそこに住んでいるかのような、重厚で高い山々が見えてくる。その中でもひときわ目を引くのが、パルナッソス山。ギリシャ神話では、あの神々が暮らしていた山だという。山の麓にあるデルフィは、かつて古代ギリシャの世界で聖地デルポイとして崇められていた場所だ。
古代の人々は、この地を「地球のヘソ」、つまり世界の中心と信じていた。そしてここで、神託や祭事が行われ、多くの人々が全国から集まってきたという。
デルポイの神託は、ギリシャで最も古い神託であり、ギリシャ神話の中にもよく登場する。それはまるで、古代の人々が未来を覗き込もうとした窓のような存在だったのかもしれない。
アポロ神殿 (The Temple of Apollo):神託が行われたデルポイの中心
デルフィの神託は、ピューティアーと呼ばれるアポロンの女神官によって告げられた予言で、古代ギリシャの世界において強大な力を持っていた。ピューティアーが口にする言葉は、ただの予言ではなく、古代の人々にとっては絶対的な真実として受け入れられた。
その予言は、戦争の行方や国の未来、王たちの運命といった、極めて重要な決断に影響を与えた。戦争を始めるかどうか、国の政治の舵をどちらに切るべきか、そうした運命の岐路に立たされたとき、人々はデルポイに向かい、ピューティアーの神託にすがるしかなかった。彼女が告げる曖昧で謎めいた言葉の中に、古代の人々は未来への道しるべを見出していたのだろう。
このピューティアーの神託が告げられていた場所、それがデルポイのアポロ神殿だ。聖地デルポイの中でも、特に神聖で中心的な役割を果たしていた建物である。この神殿は、ペリプテロスという古代ギリシャ建築様式で建てられた。細長く優美なデザインで、回廊に囲まれ、外から見ると荘厳な雰囲気を漂わせていた。この設計を手がけたとされるのが建築家スピンタラスだ。
とはいえ、紀元前5世紀の火災や紀元前3世紀の地震で神殿は倒壊してしまったため、現在では彼の設計した部分がどこにあったのかは謎に包まれている。古代の伝統によれば、アポロ神殿は5つの異なる時代に建てられたとされている。最初の3つの神殿は、ホメロスの時代以前に建てられ、残りの2つは紀元前510年に再建されたものだ。
デルポイの神託はその後も繁栄を続けたが、ローマ皇帝テオドシウス1世(347-395)の治世に、キリスト教化が進む中で神殿は390年に破壊され、その長い歴史に幕を下ろした。古代ギリシャの栄光と共に歩んできたこの場所も、時代の流れには逆らえなかったのだ。
ピューティアーが神託を告げる姿は、神殿の中にあって神秘的かつ恐ろしい光景だったと伝えられている。彼女は、アポロン神の力を受け、そのエネルギーに満たされると、叫び声を上げながら予言を授けるとされている。その言葉は、しばしば不明瞭であり、理解しがたいものだった。そのため、彼女のそばにいた司祭たちが、その言葉を解釈し、神託として人々に伝えたともいわれる。しかし、この過程についてはさまざまな説があり、はっきりとしたことは分かっていない。
古代の作家たちが残した記述をひも解くと、ピューティアーが予言を行う際には、神殿の中に立ちこめる神聖な香りや、神殿に走る地脈の影響を受けていたとも書かれている。彼女はその神秘的な力によってトランス状態に入り、まるでアポロンの声を直接聞いているかのように予言を伝えたという。
神託の具体的な様子については、歴史の霧の中に包まれているが、こうした断片的な記録を通して想像を膨らませていくことができる。神殿の中の静寂と、ピューティアーの叫び声が響き渡る瞬間、その場にいた人々はどんな感覚を抱いたのだろうか。神託を求めて訪れる者たちの期待と恐れが入り混じる中、デルポイの神殿は神々と人々をつなぐ不思議な空間だったに違いない。
映画『300』(スリーハンドレッド):神託と王の関係
余談であるが、映画『300』(2006年 ザック・スナイダー監督)にも神託を受けるシーンが冒頭登場する。映画なので、史実とは違う表現の部分もあると思うが、興味がある方は是非。
紀元前5世紀、ペルシア帝国がギリシャへ進軍した際、スパルタ王レオニダスは戦争を避けるべきか否かを決めるため、デルポイの神託を求めた。ピューティアーが告げた神託は「非戦」、すなわち戦わないことを示していた。しかし、レオニダスにとってそれは、降伏を意味するものであり、スパルタの誇り高き王として受け入れがたいものだった。それでも、神託に逆らうことはできなかった。当時の王でさえ、神託の前には無力であり、その決定に従うしかなかったのだ。
そこでレオニダスは、スパルタ全軍を率いるのではなく、自らの親衛隊300人のみを率いてペルシアに立ち向かうという決断を下した。歴史に残るテルモピュライの戦いで彼と300人の戦士が奮闘したことは、今も語り継がれている。しかし、ここで注目すべきは、彼の決断にデルポイの神託が大きく影響していたことだ。古代ギリシャにおいて、神託の力は絶対的であり、王ですらその言葉には従わざるを得なかった。神の意志として告げられた神託は、国家の運命をも左右するほどの影響力を持っていた。
デルポイのアポロ神殿の奥に進むと、斜面に沿って少し高台に古代劇場の跡が残っている。デルポイは、単なる神託の地であるだけでなく、神々の音楽や調和が支配する聖域でもあった。この劇場は、神に捧げる芸術の場として機能していた。演劇や戯曲もまた、神々への奉納としての意味を持っていたのだ。デルポイは、神と人々を結びつけ、芸術と信仰が交差する特別な場所だった。
デルフィの競技場:スタディオン(The Stadium of Delphi)
そして遺跡の中で1番高い場所にあるのが、スタディオンだ。ここからは、アポロの聖域が見渡され、デルポイ遺跡全体を見渡せる。
紀元前4世紀には造られたとされるスタディオンだが、建造の正確な年はわかっていない。178メートルの長さがあり、スタートラインも残っている。約6500人の収容を誇った。
ピューティアー大祭 (The Pythian Games) の会場として
スタディオンの建造理由の一つとして挙げられるのが、ピューティア大祭の開催である。この祭典は、アポロ神への奉納として始まり、ギリシャ全土から人々が集う重要な行事だった。元々、音楽や詩歌を競い合い、それを神に捧げる形式の祭典であったが、後に体育競技も加わり、より広範な催しへと発展した。このピューティア大祭は、4年ごとに盛大に行われ、アポロ神に捧げる最大のイベントとして、ギリシャ全土の注目を集めた。
ピューティア大祭は、古代オリンピックと並び、古代ギリシャの四大競技祭典の一つとして数えられる。その知名度はギリシャ全域に及び、競技や芸術を通じて神々に捧げるという深い宗教的意味合いを持ちながらも、ギリシャ全土の人々が一体となる機会でもあった。この祭典を支える場所として、スタディオンは欠かせない存在であり、祭典の規模や重要性が増すにつれて、その役割もますます大きくなっていった。
※ 古代ギリシャのリアル:古代ギリシャに興味を深めること間違いなしの一冊。読み物としてもとても面白いです。オススメ。
デルフィ考古学博物館
もしギリシャへ旅をして、遠くデルフィまで行く機会があれば、デルフィ考古学博物館は必見の博物館としてオススメする。
ここには興味深い展示物が沢山あるが、特筆すべきはかの有名な「青銅御者の像」。古代ギリシャ彫刻を代表する傑作である。この像の美しさには驚いた。なんと美しいのか。その美しさは写真では伝えられないにであろう。僕も現物を見るまでその美しさがわからなかった。
もし訪れることがあれば、是非とも現地でその美しさを確認していただきたい。
服飾デザイナーであるマリアノ・フォルチュニイ(1871-1949)は、この像からインスピレーションを得てデルフォス・ドレスのデザインをしたという。
この彫刻は、1896年にデルフィのアポロンの聖域で発見された。発掘現場では、戦車や馬、手綱の部分も発見されたそうだ。
「理想を美として表現した」古代ギリシャ彫刻は、近代以降の「現実の中に美しさを求め表現する」という考えではなく、とにかく究極の理想美を追求したと言っていいだろう。 よって、その理想美を表現する対象は、神々ということになるが、この「御者の像」は果たして神であろうか?僕はこれが何を表現したものなのか、また、作成理由についても非常に興味をもった。
戦車競走(チャリオット・レース)での戦勝記念で造られた
前述のとおり、古代デルフィでは、ピューティア大祭と呼ばれたアポロン奉納祭があった。
青銅御者の像は、この紀元前470年大祭において、シチリアの僭主が戦車競争(チャリオット・レース)で勝利したのを記念して作られたそうだ。
映画ファンであれば、映画ベンハーでの戦車競争を思い浮かべるかもしれない。当時、戦車競争で勝利する事は大変な名誉であったそうで、この像を贈られたシチリアの僭主も、光栄であったろう。
古代ギリシャ世界の「地球の中心」であったデルフィ。そして、ピューティア大祭と戦車レース。遺跡や「青銅御者の像」を見ると、まるで古代の人々の息吹を感じられるようだ。
オススメ書籍の紹介
ギリシャ美術史のオススメ書籍: 『ギリシャ美術史入門』この本はわかりやすくオススメです。
聖地巡礼として特集された芸術新潮。グラフィックもよく、楽しい一冊。手元に置いておきたいですね。
Photo and Writing by Hasegawa, Koichi
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