はじめに
レオナルドとミケランジェロの対決。
美術ファンにはたまらないテーマだ。今回は彼らの建築物と都市計画を取り上げて比較してみたい。
目次
はじめに:レオナルドとミケランジェロ、その建築と都市計画
ルネサンス期の芸術家は、あらゆる分野にその能力を発揮した。建造物にも彼ららしさが現れていたはず。
レオナルドが活躍した都市と言えば、ミラノが挙げられる。また、このミラノと共にフランスにも触れる。レオナルド最晩年の地だ。
彼は「万能の天才」と称されるが、例えば建築や都市計画などの出来はどうだったのだろう。
そして、ミケランジェロと言えばローマ。「神の如き」とまで称されたミケランジェロの建築を含む作品はローマに傑作が多い。
では彼らの痕跡を探してみよう。

レオナルド・ダヴィンチとミラノ
レオナルドは、1482年から1499年までの間ミラノで活動した。
フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチは、ミラノ公国との関係を良好にするため、レオナルドを派遣する。絵画作品では、有名な『最後の晩餐』(1495-98)も、このミラノ時代の作品だ。
レオナルドは、宮廷での生活を有意義に過ごした。彼のパトロンであるミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドに対し種々注文をする。『最後の晩餐』も彼による注文だ。芸術作品以外でも彼はレオナルドに色々と意見を求めようだ。
ドゥオーモとレオナルドの関係
ミラノの象徴的な建築ミラノ大聖堂 (ドゥオーモ)は、1386年から500年もの月日をかけて完成したゴシックを代表する建築で、見るととにかく圧倒される。
特に圧巻は135本の尖塔が伸びており、それぞれに聖人が立っている。中でも黄金のマリア像は一番高い所に立つ。

このドゥオーモのティブーリオ(円蓋)の計画が暗礁にあがっていた頃、レオナルドもそのデザインコンペに関わっていた記録がある。彼の製作した模型に対する領収書が、大聖堂造幣局から発行されたそうだ。
結果的にはレオナルドのデザインは採用には至らなかったようだ。
理由としては、彼のアイディアが斬新すぎたため、取り上げられなかったとか、適任者を探す段階で興味をなくしたから自ら手を引いたなどがあるらしい。
ドゥオーモ以外でも、ミラノの都市計画に関しては、ペストが流行を機に、衛生面を考慮した計画がある。
レオナルドの都市計画や建築は残念なことに実物として残っているのを探すのが難しい。しかし、彼の考えはこれらの計画に関わっていたことを考えると、その卓越した能力はやはり評価されていたと想像する。
シャンボール城にある「二重らせん階段」の美しさ
フランスにレオナルドがデザインしたといわれる「二重らせん階段」がある。
この「らせん階段」は、らせん状に二つの階段がグルグルと絡み合っているイメージ。人が階段の登り降りで鉢合わせしない設計になっている。

詳しくは違う記事に書いたが、ともあれレオナルドの「動の美」は建築にも表れている。
彼が設計をした証拠はないが、レオナルドらしさが確かにここにはある。
残念なことにミラノをはじめ他の地域にも形になったもの、現存しているものがない。レオナルドに関しては建築や都市計画面より絵画での実績の方がはるかに上ということになるかもしれない。
※オススメ本
- レオナルド関連ではこの本が面白い。彼の生い立ちから人物像まで書かれているため、読み物としても面白い。
- レオナルドの人生を写真と共に追えるこちらの一冊もオススメ。
- 最近読んで面白かったのがこちら。ダヴィンチの残した数々の言葉を現代生活を送る我々に役立てる試み。オススメ。
ミケランジェロとローマ
ローマに行くとミケランジェロを至る所で感じると言ったら大袈裟であろうか。
もちろん、システィーナの天井画であったり、ピエタといった壁画や彫刻のスケールやクオリティも圧倒的だが、これらの作品と共に彼の建築物も凄い。
この街は古代遺跡に囲まれているし、バロック建築物も街には多く見られる。しかし、ミケランジェロの圧倒的な才能は、これらの建築群の中でも光り輝いている。
ミケランジェロと巨大クーポラ

まずは、何と言ってもヴァチカンの巨大なクーポラ。ミケランジェロが設計した建築物でも特に代表的なものの一つであろう。
クーポラとはイタリア語だが、英語のドームと言えばわかりやすい。丸天井をいい、特にヨーロッパなどでは宗教建築に多く用いられた。
イタリアではこのクーポラをもつ有名な建築が多い。まずはローマにあるパンテオン。古代建築の傑作だ。

そして、フィレンツェにあるサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂が有名だ。ブルネレスキの傑作で、15世紀初頭にその困難な工事を経て完成された。直径は55メートル。この建築はルネサンスの奇跡と称される。
このように古代からの建築であるクーポラだが、ミケランジェロはバチカンのサンピエトロ大聖堂の巨大クーポラを担当する。フィレンツェのクーポラよりも高い位置にあるため、大迫力だ。
ローマ七つの丘のひとつカンピドリオと広場
ローマには七つの丘がある。古代ローマはこれら丘を中心に発展した。その中でも一番高い丘をカンピドリオという。一番高い丘なので、ローマでも最高神を祀った神殿があった。
ところで、カンピドリオは英語のキャピタル(首都)の語源にもあたるそうだが、都市の中でもあらゆる政治経済の中心に位置する首都の語源からもわかるように、この丘がローマの中心的な位置にあったということであろう。
ミケランジェロは、教皇パウロ三世の依頼で、このカンピドリオの丘の広場を設計した。ローマを世界の中心にするという教皇の思惑をミケランジェロへ託したのかもしれない。

ローマ市庁舎が今もあるが、ミケランジェロはこれを背にしてローマ市街、もっと言うとバチカンが見える方向に広場を設計した。丘の反対側は、フォロ・ロマーノやコロッセウムが広がる古代ローマの中心地だ。
古代ローマを背にしてその時間軸上の先にバチカンを配置する。古代からバチカンへ伸びているこうした配置は、見事に教皇やミケランジェロがキリスト教総本山を指し示すとという思惑を表現しているといえよう。
このように古代遺跡をある意味で利用した素晴らしい配置、正面から階段を登っていって現れるバロック的建築が創り出すの空間構成は素晴らしい。
マルクス・アウレリウス帝の騎馬像の配置
そして、彫刻家としてのミケランジェロらしい配置がもう一つ。
マルクス・アウレリウス帝の騎馬像は古代世界の傑作彫刻で、ルネサンス期の芸術家にも多大な影響を与えたものだ。通常広場の脇に設置してきたこうした騎馬像を、ミケランジェロは中央に設置する。

キリスト教の時代になってから、こうした異教時代のものは破壊されてきたが、この騎馬像は残っていた。それはキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の騎馬像とその当時信じられていたからだそう。ミケランジェロはこの騎馬像がマルクス帝のものとわかっていたかもしれない。
ともあれ、この素晴らしい騎馬像を残すことと、配置場所を中央にしたことは彫刻家ミケランジェロらしくて、素晴らしい仕事であったと思う。
古代の建築を使用した聖堂の設計
共和国広場に面したサンタマリア・デッリ・アリンジェリ聖堂も彼の設計だ。この建物は、古代にあったものをそのまま使用して作られている。外観は古代の雰囲気を残し、聖堂内部は大きな空間が広がる。

※オススメ本
- ミケランジェロの生涯を書いた有名な一冊。
- ミケランジェロの仕事を写真で追っていくにはオススメの本
おわりに:レオナルドとミケランジェロの建築/都市設計
レオナルドの建築や都市計画という実績が残っていないため、彼のその方面での作品を見ることは、図面や手稿などから想像していくしかない。
他方ミケランジェロはパトロンも強力だったため、その計画は具体化し現実化しているものが多い。
建物や都市デザインは、誰の目にもつくため、街を作り出す面での芸術家の影響は大きい。ミケランジェロの作り出したものは、今なお現役だ。そういった意味では、この勝負はミケランジェロに分があるだろう。
Photo and Writing by HASEGAWA, Koichi
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