はじめに
今回ご紹介するのは、南仏アルルとゴッホの名作『アルルの跳ね橋』です。
ゴッホが描いた『跳ね橋』シリーズは、彼の作品群の中でも特に多くの人々を魅了してきた傑作のひとつ。アルルの美しい風景と共に、ゴッホならではの色彩感覚や力強いタッチが存分に感じられる作品です。南仏の光を浴びた跳ね橋には、ゴッホの芸術家としての魂と情熱が凝縮されています。
アルルの場所
ゴッホ作『アルルの跳ね橋』シリーズ
ゴッホが『跳ね橋』を描いたのは、アルルに春の気配が漂い始めた3月半ば。南フランスの風景が、いよいよ色鮮やかに命を吹き返す季節です。そんな時期に、ゴッホはアルルの美しい自然とともに、特に心惹かれたラングロワ橋を作品に昇華させました。
『アルルの跳ね橋』は、フランス語で「Le Pont de l’Anglois」(英語では「The Langlois Bridge at Arles」)と呼ばれ、実際にアルルに存在していたこの橋は、ゴッホにとって象徴的なモチーフとなりました。
このシリーズは、ゴッホのアルル時代を象徴する作品群の一つであり、彼はラングロワ橋をモチーフに、4点の油絵、1点の水彩画、そして4点のデッサンを生み出しています。光と色彩が躍動するこれらの作品には、アルルの春が映し出されています。
色彩の鮮やかさや大胆さ、そして浮世絵からの影響が感じられる構図、さらには絵の具を厚く塗り重ねたインパスト技法など、後のゴッホ作品に見られる特徴が既にこの『アルルの跳ね橋』シリーズに表れています。ゴッホが南仏の光をどのように捉え、作品に昇華させたかを知る上で、このシリーズはまさに傑作といえるでしょう。
故郷オランダを想いながら
「跳ね橋」と聞くと、多くの人はフランスよりもオランダを連想するかもしれません。
実際、南フランスには当時から跳ね橋をはじめ、ゴッホに故郷オランダを思い起こさせるような茅葺きの家や風車、運河などが点在していました。オランダ出身のゴッホがこの「ラングロア橋」を描いていた時、彼の心の中には、遠く離れた故郷への郷愁が静かに漂っていたのかもしれません。アルルの風景とオランダの記憶が交錯する瞬間、それが彼の作品に豊かな感情をもたらしたのでしょう。
ちなみにアムステルダムにある跳ね橋は下の写真のような感じ。ゴッホはアルルにある跳ね橋から故郷を想ったでしょう。
※ こちらの本はわかりやすくゴッホを紹介している本です。オススメ。
復元された跳ね橋
ラングロワ橋は、19世紀に運河の上に架けられた橋として知られています。アルルからフォスに至るこの運河は、ローヌ川とフォス=シュル=メールを結ぶ全長31キロに及ぶもので、当時の風景に溶け込んだ跳ね橋は、ゴッホの絵の中でも重要な役割を果たしました。
しかし、ゴッホが描いたオリジナルの跳ね橋は、残念ながら20世紀前半に壊れてしまい、現在はその姿を直接見ることはできません。ただ、復元された橋がアルルの街から約3キロほど離れた場所にあり、車で行くことができます。周囲は穏やかで、特に観光スポットがあるわけではありませんが、そこにはかつてのゴッホが見たであろう風景の名残を感じさせる静かな空気が漂っています。
運河自体は今ではコンクリートで整備され、ゴッホが描いた頃の自然な河原は失われていますが、アルルの跳ね橋という歴史とゴッホの芸術に触れられる場所として、その独特の雰囲気を楽しむことができるでしょう。
日本への憧れが画面に現れる
ゴッホが『アルルの跳ね橋』を描いたのは、南フランスに春が訪れた3月のこと。春の明るさを見事に表現するため、色彩は一段と鮮やかです。
アルルに来たゴッホは、待ち望んでいた色彩の世界を手に入れました。青く輝く水面、オレンジ色の土手、そして鮮やかな黄色い橋が、彼のキャンバスに生き生きと描かれています。南仏の光と色に満ちたこの地で、ゴッホは「南の春」を心から楽しんだことでしょう。その景色に魅了され、夢中になっていた彼の情熱が、作品から伝わってきます。
さらに見逃せないのは、ゴッホがアルルに強い日本への憧れを抱いて移り住んだことです。彼はアルルを「僕の日本」と捉え、「ここでは日本の作品は必要ない。僕は日本にいると思っているから」と語っています。アルルの風景は、ゴッホにとって心の中の日本と重なり、その鮮やかな色彩とともに、彼の作品に深いインスピレーションを与えたのです。
ゴッホにとって、アルルに到着した頃は確かに最も幸せな時期だったかもしれません。彼は南フランスの光と色彩に魅了され、新しい創作の可能性に満ちた生活を始めました。アルルの穏やかな景色や暖かな春の陽射しは、彼にとってまさに理想郷のようだったのでしょう。絵画への情熱が最高潮に達し、心も身体も充実していたこの時期、彼は多くの傑作を生み出し、自らの芸術をさらに深めていきました。
ゴッホが「ここでは日本にいる気分だ」と語ったように、アルルは彼にとってインスピレーションと希望の地であり、この地で過ごした時間が彼の人生において最も輝かしい瞬間であったのかもしれません。
また、ゴッホは友人で画家のエミール・ベルナールへの手紙で、
「まず、この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のため僕には日本のように美しく見えるということから(この手紙)を始めたい。水が風景の中で美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画の中で見るのと同じような感じだ。地面の色を青く見せる淡いオレンジの落日。華麗な黄色の太陽。」と述べている。
手紙の中でも「色への感動」がよく登場します。そしてそれは同時に彼が信じていた「色彩溢れる日本」への憧れでもあります。
また、『アルルの跳ね橋』では広重の影響もよく指摘されます。強い色の使い方がハーモニーを生み出してとても美しい色彩表現ですね。また、描かれている日常風景もまたのどかで、浮世絵で日本の日常が描かれているのを知っていた彼は日本を意識していたかもしれません。
ゴッホがアルルにやってきたのは、ただ美しい風景に惹かれただけではありませんでした。彼には、ここで画家たちの共同体を築き、理想郷を作り上げるという大きな夢があったのです。しかし、残念ながらその夢は同じ年の12月に破綻してしまいます。それでも、『アルルの跳ね橋』を描いた春の時期には、ゴッホの心にはまだ幸福感が満ちていたように思えます。彼が南仏の光と色に浸りながら、次々と生み出した多くの傑作は、その証といえるでしょう。
復元された跳ね橋を目の前にしたとき、私は彼の抱いた希望や、日本への深い憧れ、そして故郷オランダへの望郷の思いを自然と感じ取りました。アルルで追い求めた理想、遠い異国と故郷が交差する彼の心の風景が、この場所に息づいているかのようでした。
ゴッホが夢にまでみた南フランスの陽光を求めて
ある年のクリスマス、ゴッホゆかりの風景を求めてアルルを訪れましたが、夏の日差しとは異なる独自の魅力を感じました。街は静かで、クリスマスを心待ちにする温かな雰囲気が漂っています。冬のアルルもまた、素晴らしい魅力を秘めているのです。
アルルにはゴッホの作品を展示している美術館はないものの、彼が描いた原風景を実際に目にしたいと願って訪れました。現在のアルルには、ゴッホが生きていた当時の面影が色濃く残っています。そして、今回紹介した『跳ね橋』も、彼にゆかりのある特別な場所の一つです。
ゴッホがパリからアルルに到着したのは、まだ寒さが残る2月20日のこと。南フランスでは珍しく、雪がちらほらと残っていたそうです。春や夏の季節には、強烈な太陽の光を体験できたことでしょうが、彼が体験したのは、まさに春を待つ静けさの中での創作の日々でした。この待望の春が、ゴッホにどのようなインスピレーションを与えたのか、想像するだけで胸が高鳴ります。
アルルでのゴッホを詳しく知るために
ゴッホが描いた南フランスでの作品は、どれも素晴らしい。詳しく知りたい方にオススメの書籍を紹介します。
フィンセント・ファン・ゴッホ:失われたアルルのスケッチブック:ちょっと高価なんですが、これは凄い本です。ずっとアルルのカフェに眠っていたゴッホの未公開スケッチブックです。生のゴッホに触れられるので、手元に置いておきたい一冊。
ファン・ゴッホの手紙【新装版】:ゴッホは筆まめでした。なので、彼の生活や人生を追うことは比較的容易になります。そこで、彼の手紙。ゴッホを知りたい方は、手紙集をぜひご覧になってください。必読の一冊です。
ファン・ゴッホの生涯 上:ゴッホの生涯を追います。彼の足跡は、大きくオランダ時代、パリ時代、南フランス、そしてオーヴェールとなります。彼の生涯を読んでおくと、作品の変化も楽しめて、とても面白いです。
ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫):ゴッホ研究の第一人者が解説するゴッホです。読みやすく、ゴッホに迫れる良書です。入門にオススメの一冊。
話題になったゴッホの映画です。ゴッホ好きな方はぜひ!
Photo and Writing by Hasegawa, Koichi and Shino
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