サン・マルタン運河を歩く
今回歩くのは、パリのサン・マルタン運河周辺である。
パリには、誰もが思い浮かべる華やかな場所がある。
エッフェル塔、ルーヴル美術館、シャンゼリゼ、モンマルトル、サン=ジェルマン。
それらは確かに美しい。
けれど、何度かパリを訪れると、少し違う場所を歩きたくなる。
観光名所を急いで巡るのではなく、生活の気配が残る界隈を、ただぶらぶら歩きたくなる。
サン・マルタン運河周辺は、そんな気分によく合う場所だった。
水辺があり、橋があり、並木があり、カフェがある。
とくに大きな観光名所があるわけではない。
けれど、街の空気がどこかやわらかい。
少しノスタルジックで、少しだけ下町らしく、でも今のパリらしい感覚もある。
パリに「暮らすように滞在したい」と思うなら、こういう場所を歩くのがいい。
パリ下町のノスタルジー
パリの下町というと、まずモンマルトルを思い浮かべる人が多いかもしれない。
十九世紀にはまだ郊外のような場所で、家賃の安さに惹かれて、多くの画家や詩人たちが集まった。
それに対して、サン・マルタン運河周辺には、また別の下町の空気がある。
運河沿いに歩いていると、街の中心から少しだけ離れた場所にいる感じがする。
サン・マルタン運河は、ラ・ヴィレット貯水池とアルスナル港を結ぶ運河である。
アルスナル港を抜けると、セーヌ川へとつながる。
つまりこの水路は、パリの街の中にありながら、どこか別の時間へ続いているようにも感じられる。
橋の上から水面を眺める。
並木道を歩く。
カフェのテラスに座る。
犬を連れて歩く人が通り過ぎる。
自転車が走っていく。
そうした何気ない風景が、この界隈の魅力である。

パリには、絵葉書のような美しさがある。
けれど、サン・マルタン運河のあたりには、もっと日常に近い美しさがある。
華やかではない。
でも、歩いていると心地よい。
旅行者でありながら、少しだけこの街に住んでいるような気分になれる。
その距離感が、なんともいい。
映画『北ホテル』の記憶
サン・マルタン運河周辺を語るとき、外せない映画がある。
マルセル・カルネ監督の『北ホテル』である。
一九三八年に公開されたこの映画は、パリの下町を舞台にしたクラシックな白黒映画として知られている。
その舞台となった「北ホテル」は、今もこの界隈を語るうえで欠かせない場所だ。
かつては映画と同じ名のホテルとして営業していたが、現在はレストランバーとして使われている。
古いホテルの記憶を残した建物は、サン・マルタン運河のノスタルジックな雰囲気によく似合っている。
映画の舞台を訪ねる旅には、不思議な楽しさがある。
画面の中で見た場所が、現実の街の中に現れる。
あるいは、現実の街を歩いているうちに、映画の場面がふっと重なってくる。
『北ホテル』を知っている人なら、この界隈を歩く時間は少し特別なものになるだろう。
白黒映画の中のパリ。
運河沿いの古い空気。
人々の声や水辺の気配。
それらが、今のサン・マルタン運河の風景の中に、かすかに残っているように思える。
『アメリ』の水辺
サン・マルタン運河を舞台にしたもうひとつの映画として、『アメリ』も忘れられない。
ジャン=ピエール・ジュネ監督の『アメリ』は、フランス映画を代表する人気作のひとつである。
日本でも多くの人に愛されてきた作品で、モンマルトルを中心に、パリの下町の風景が印象的に描かれている。
映画の中で、アメリが水切りをする場面がある。
その舞台が、サン・マルタン運河である。
アメリという人物は、どこか現実から少し浮いている。
小さな空想を抱えながら、街の片隅で世界を少しだけ変えようとする。
そんな彼女の姿に、この運河の風景はよく合っている。
サン・マルタン運河には、現実のパリでありながら、どこか映画のセットのように見える瞬間がある。
橋、並木、水面、古い建物。
それらがひとつに重なると、普通の街角が少しだけ物語めいてくる。

『アメリ』の音楽を思い出しながら歩くと、この界隈の空気はさらにやさしく感じられる。
アコーディオンの音、少し懐かしい旋律、パリの路地の光。
映画の記憶と実際の風景が、静かに混ざっていく。








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