映画で旅するヴェネツィア|水の都をめぐる名作と写真紀行

夕暮れのグランドカナルにゴンドラが。

『旅情』|ヴェネツィアを夢見た女性の物語

ヴェネツィアが舞台の映画として、もうひとつ大切にしたいのが『旅情』である。

1955年の作品で、キャサリン・ヘップバーンが主演した恋愛映画の名作である。

主人公のアメリカ人女性ジェーン・ハドソンは、念願のヨーロッパ旅行に出かける。その旅の最後の目的地として訪れる街がヴェネツィアである。

この映画のヴェネツィアには、古き良き時代の旅の空気がある。

観光地としての華やかさだけではなく、ひとりで旅をする女性の孤独や期待、異国で出会う恋のときめきが、街の風景とともに描かれている。

サン・マルコ広場、運河、カフェ、水辺の路地。

映画の中のヴェネツィアは、少し甘く、少し切ない。

今見ると、絵に描いたような恋愛映画に感じられるかもしれない。けれど、その素直なロマンチックさも含めて、ヴェネツィアという街によく似合っている。

ヴェネツィアの運河沿いの風景
ヴェネツィアの運河沿いを歩く。Photo by HASEGAWA, Koichi

サン・マルコ広場|映画の舞台になるヴェネツィアの中心

多くの映画で印象的に登場する場所が、サン・マルコ広場である。

サン・マルコ広場は、ヴェネツィア共和国の中心だった場所であり、政治、信仰、儀礼、外交が重なり合った空間である。

海からヴェネツィアへ入ると、まず目に入るのがドゥカーレ宮殿とサン・マルコ寺院周辺の壮麗な景観だった。

ヴェネツィア共和国の時代、この街は海から入る都市だった。

現在は鉄道や道路で本土と結ばれているが、かつてのヴェネツィアにとって、海こそが玄関口だった。だからこそ、サン・マルコ周辺には、この都市の威厳と美意識が集中している。

広場に立つと、ここが単なる広場ではなく、ひとつの舞台のように設計されていることがわかる。

サン・マルコ寺院のドーム、ドゥカーレ宮殿の白い外壁、鐘楼、広場を囲む建物。どの方向を向いても、視線が建築によって導かれていく。

映画がこの場所を好むのも当然だと思う。

サン・マルコ広場には、すでに映画的な構図がある。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場
サン・マルコ広場。Photo by HASEGAWA, Koichi

サン・マルコ寺院と『インフェルノ』

サン・マルコ広場の中心的な建築が、サン・マルコ寺院である。

ビザンティン風のドーム、金色に輝くモザイク、東方的な雰囲気をまとった外観。西ヨーロッパの教会でありながら、どこか地中海と東方世界の香りを感じさせる建築である。

このサン・マルコ寺院は、トム・ハンクス主演の映画『インフェルノ』にも登場する。

『インフェルノ』は、歴史、美術、宗教的象徴、都市の謎をめぐるサスペンスとして展開する作品であり、ヴェネツィアの建築空間はその物語によく合っている。

サン・マルコ寺院の内部に入ると、光の印象が外とはまったく違う。

金色のモザイクがほのかに輝き、空間全体に厳かな雰囲気が漂う。映画の中で見るよりも、実際の内部には、より深い歴史の重みがある。

サン・マルコ寺院の内部
サン・マルコ寺院の内部。Photo by HASEGAWA, Koichi

『ヴェニスに死す』|美しさと老いの街

ヴェネツィアを舞台にした映画の中でも、特別な存在感を持つのが『ヴェニスに死す』である。

トーマス・マンの小説を原作とし、ルキノ・ヴィスコンティが映画化した作品として知られている。

老いた芸術家がヴェネツィアを訪れ、美少年との出会いを通して、衰え、憧れ、美、死と向き合っていく。

この映画のヴェネツィアは、観光映画としての明るい水の都ではない。

美しいけれど、どこか退廃的で、湿度があり、病と老いの気配をまとっている。

それでも、だからこそ忘れがたい。

ヴェネツィアは、明るくロマンチックな街であると同時に、沈みゆく美しさを感じさせる街でもある。水に浮かぶ都市だからこそ、永遠と儚さが同時に見える。

『ヴェニスに死す』は、そのヴェネツィアのもうひとつの表情を見せてくれる映画である。

『リトル・ロマンス』|嘆きの橋と初恋のヴェネツィア

ダイアン・レインのデビュー作として知られる『リトル・ロマンス』も、ヴェネツィアを印象的に使った映画である。

物語はフランスから始まり、若い二人がヴェネツィアへ向かう。

彼らが目指すのは、嘆きの橋でのサンセットキスの伝説である。

ヴェネツィアには、こうした恋愛の物語がよく似合う。

橋、水路、夕暮れ、細い路地。街そのものが、出会いと別れ、約束と記憶の舞台になる。

『リトル・ロマンス』のヴェネツィアは、若い恋のまぶしさと、旅の冒険心に満ちている。

『旅情』が大人の孤独と恋を描くなら、『リトル・ロマンス』は初恋のまっすぐな憧れを描いている。

同じヴェネツィアでも、映画によってこれほど表情が変わるのが面白い。

映画でヴェネツィアを旅する

ヴェネツィアは、映画によって何度も違う顔を見せてくれる。

『カジノ・ロワイヤル』では、愛と喪失の舞台になる。

『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』では、冒険と謎の入口になる。

『ツーリスト』では、観光客の憧れをそのまま映し出す。

『旅情』では、旅先で出会う恋と孤独を抱える。

『ヴェニスに死す』では、美しさと老い、そして死の気配をまとう。

『リトル・ロマンス』では、若い恋と伝説の街になる。

ひとつの街が、これほど多くの物語を受け止めることができる。

それがヴェネツィアのすごさなのだと思う。

実際に旅をする前に映画を見るのもいい。

旅から帰ってきたあとに、もう一度映画を見るのもいい。

すると、映画の中の風景と、自分が歩いた道、自分が見た水面が重なってくる。

ヴェネツィアは、現実の旅先でありながら、映画の中にも、記憶の中にも、静かに浮かび続ける街である。

筆者について

長谷川浩一|美術史家・講師・執筆

旅先で出会った街角の光、夜の気配、建築や風景に残る時間の層を、
写真と言葉で記録しています。
東京では西洋美術史講座 Edogawa Art Salon, Tokyo を開き、
noteでも美術や旅にまつわる文章を書いています。

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