夜の散歩シリーズ:ヴェネツィアの夜散歩 サン・マルコ広場と運河に包まれる静寂

夜のヴェネツィア。Photo by Hasegawa, Koichi

ヴェネツィアの夜を歩く

ある冬の夜、僕はホテルからサン・マルコ広場へと向かった。
その日は夕暮れのころから霧が広場を包みはじめ、街全体が少しずつ幻想の中へ入っていくようだった。

霧に含まれた湿気には、この街の長い歴史が染み込んでいるように感じられた。
ただ冷たいだけではなく、古い石や海の匂いを含んだ重みがあって、空気そのものがひとつの演出になっていた。
ヴェネツィアの夜には、こういう気象までもが味方につくことがある。

夜のサン・マルコへ向かう。Photo by Hasegawa, Koichi

サン・マルコ広場 ― 世界で最も美しい広場の夜

サン・マルコ広場は、ヴェネツィア共和国の歴史の中心だった。
宗教の中心であるサン・マルコ寺院、政治の中心であるドゥカーレ宮殿
この二つがひとつの広場を形づくっていること自体が、この都市のあり方をよく物語っている。

サン・マルコ寺院の玉ねぎ型のドームは、東方的な気配を色濃く残している。
ビザンティンの伝統を受け継いだその姿は、ヨーロッパの他の広場ではなかなか見られない。
一方、ドゥカーレ宮殿は共和国の政庁であり、総督ドージェの住まいでもあった。
この広場は、宗教と政治、東方と西方、儀式と日常が交差する場所なのだ。

サン・マルコ広場に立つと、空間そのものがよく計算されていることに気づく。
まるで劇場の舞台の中に自分が入り込んだような感覚になる。
昼間でもその効果は感じられるが、夜はさらに強い。
建物からこぼれる光が広場の奥行きをつくり、静かな視覚のドラマを生んでいる。

ナポレオンがここを「世界で最も美しい広場」と呼んだのも、たしかに大げさではないと思える。

サン・マルコ広場の夜。Photo by Hasegawa, Koichi

夜が深まるにつれて、昼の観光客たちは姿を消していく。
近くのホテルに戻る人、地元の人たちがぽつぽつと歩いているだけになり、広場にはようやく本来の静けさが戻ってくる。

サン・マルコ寺院もドゥカーレ宮殿も、過度にライトアップされているわけではない。
だからこそ、暗がりの中に浮かぶその輪郭がいっそう印象的に見える。
僕は、京都や奈良の寺院が夜の闇にぼんやり浮かぶ感じが好きだけれど、ヴェネツィアの建物にもそれに通じる味わいがある。
控えめな光の中でこそ、古い建築は深い呼吸を始める。

広場は海に近い。
波の音を聞きに少し歩いていくと、ゴンドリエーレが後片付けをしている姿が見えた。
ヴァポレットが帰路につく人々を乗せて通り過ぎ、ヴェネツィアの夜はさらに静かに深まっていく。
その光景を見ていると、この街の夜は「終わる」というより、ゆっくり沈んでいくのだと感じる。

サン・マルコのゴンドラ乗り場。Photo by Hasegawa, Koichi

ヴェネツィアを訪れるなら、できれば本島に泊まりたい。
夜も更けたころ、ホテルからそっと外へ出て、静かな路地や運河を歩く。
その体験こそが、この街の本当の魅力を教えてくれるからだ。

昼のヴェネツィアが水の都の華やかさを見せる街だとすれば、夜のヴェネツィアは、水と闇と記憶がひとつになる街だ。
その静寂の中を歩く時間は、他のどの街にも代えがたい。

Photo and Writing by Hasegawa, Koichi

筆者について

長谷川浩一|美術史家・講師・執筆

旅先で出会った街角の光、夜の気配、建築や風景に残る時間の層を、
写真と言葉で記録しています。
東京では西洋美術史講座 Edogawa Art Salon, Tokyo を開き、
noteでも美術や旅にまつわる文章を書いています。

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