モンマルトルを歩く
ルノワールの作品を見たあとでモンマルトルを歩くと、街の見え方が少し変わる。
ここは、かつて多くの芸術家たちが暮らし、制作し、夜ごと集まった場所である。
ピカソ、ロートレック、ユトリロ、モディリアーニ。名前を挙げればきりがない。モンマルトルの路地を歩いていると、彼らがこの坂道を上り下りし、カフェや酒場に入り、アトリエへ戻っていったのだろうかと想像してしまう。
美術館の中で作品を見ることも大切だが、作品が生まれた場所を歩くことには、また別の楽しさがある。
なぜその作品がここで生まれたのか。
なぜこの土地に芸術家たちが集まったのか。
街を歩くことで、作品の背景にある空気が少しずつ見えてくる。
モンマルトルには、風車の記憶が残っている
モンマルトルを歩いていると、「ムーラン」という名前に何度か出会う。
ルノワールが描いたムーラン・ド・ラ・ギャレット。そして、ロートレックが通いつめたことで知られるムーラン・ルージュ。
どちらにも「ムーラン」、つまり風車という言葉が入っている。
これは、モンマルトルがかつて風車のある土地だったことを伝えている。今でこそ観光客でにぎわうパリの一角だが、19世紀のモンマルトルには、まだ郊外の名残が残っていた。
その少し外れた土地柄が、芸術家や庶民たちを惹きつけたのだろう。
中心部よりも自由で、少し雑多で、少し安く、そしてどこか開放的である。モンマルトルは、近代パリの華やかさと下町的な空気が混ざり合った場所だった。

ムーラン・ルージュとロートレック
モンマルトルの「ムーラン」といえば、ムーラン・ルージュも忘れることはできない。
ムーラン・ルージュは、1889年に開店したダンスホール、キャバレーである。フランス語で「赤い風車」を意味するその名前は、現在でもモンマルトルを象徴するもののひとつになっている。
ここに通いつめた画家として有名なのが、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックである。
ロートレックは、ムーラン・ルージュの踊り子や観客、夜の歓楽街の人々を数多く描いた。彼のポスターや絵画には、ルノワールとは異なるモンマルトルの姿がある。
ルノワールが描いた《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》には、日曜の午後の明るさがある。
一方、ロートレックのモンマルトルには、夜の人工的な光、キャバレーの熱気、少し疲れた都会の空気がある。
同じモンマルトルでも、画家によって見えていたものは違う。
だからこそ、モンマルトルを歩くことは面白い。
昼のルノワールと、夜のロートレック。ふたつの時間が、同じ丘の上に重なっている。
洗濯船跡とピカソの記憶
モンマルトルには、20世紀美術につながる記憶も残っている。
その代表が、ラヴィニャン通り13番地にあった洗濯船である。
洗濯船は、かつて多くの若い芸術家たちが集まったアトリエ兼集合住宅だった。ピカソはここで暮らし、1907年に《アヴィニョンの娘たち》を制作したことで知られている。
この作品は、キュビスム誕生へとつながる重要な作品であり、20世紀美術の大きな転換点とされる。
ルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》から、およそ30年後。
同じモンマルトルで、今度はピカソがまったく新しい絵画の可能性を切り開いていく。
モンマルトルという場所には、印象派の余暇の風景から、ロートレックの夜の世界、そしてピカソの前衛までが重なっている。
ひとつの街を歩くだけで、19世紀から20世紀へと美術史が動いていくのを感じられるのである。
作品が生まれた場所を歩く楽しさ
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》は、オルセー美術館で見ることができる。
もちろん、美術館で作品そのものと向き合う時間は大切である。画面の前に立ち、木漏れ日の光、人々の表情、筆触の揺らぎを見る。その体験は、美術館でしか味わえない。
けれど、そのあとでモンマルトルを歩くと、作品はもう少し立体的に見えてくる。
この丘に人々が集まったこと。
ここにダンスホールがあり、風車があり、庶民や芸術家たちが日曜の午後を楽しんだこと。
そうした場所の記憶を知ると、ルノワールの画面の中の光や笑い声が、より身近に感じられる。
美術史は、美術館の壁の中だけにあるわけではない。
街角に、坂道に、カフェに、かつてのダンスホールの跡に残っている。
モンマルトルを歩くことは、ルノワールが描いたパリの午後の余韻をたどることでもある。
モンマルトルで、ルノワールの光を思い出す
モンマルトルは、現在では観光地としてとてもにぎやかな場所である。
それでも、坂道を少し外れ、路地を歩いていると、ふと古いパリの気配に出会うことがある。
石畳の道、壁に落ちる影、丘の上から見えるパリの街。そこには、画家たちがこの場所に惹かれた理由が少し残っているように感じられる。
ルノワールの《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》は、明るく楽しげな作品である。
しかしその明るさは、ただ陽気なだけではない。
近代都市パリの中で、人々が束の間の自由を楽しむ時間。その一瞬のきらめきを、ルノワールは木漏れ日の光として描いた。
オルセー美術館で作品を見て、モンマルトルを歩く。
その順序をたどると、絵の中の光が、実際の街の記憶とつながっていく。
パリの旅で美術を楽しむなら、作品を見たあとに、その作品が生まれた場所を歩いてみるのもいい。
ルノワールの描いた午後の光は、今もモンマルトルの坂道のどこかに残っているように思える。








コメントを残す