ムラーノ島を通って
やがて水上バスは、ムラーノ島へ入っていく。
ムラーノ島は、ヴェネツィアン・ガラスで有名な島である。
本島に比べると少し落ち着いていて、運河沿いをゆっくり歩くのも楽しい。観光客はいるが、サン・マルコ周辺ほどの混雑はなく、どこか穏やかな空気が流れている。
中世以来、ムラーノ島のガラス工芸は、ヴェネツィア共和国にとって重要な産業だった。
ガラス職人たちの技術は高く評価され、ヴェネツィアの名産としてヨーロッパ各地へ広がっていった。
水上バスで島を通りながら、ガラス工房が並ぶこの島の歴史を思うと、ヴェネツィアが単なる美しい観光都市ではなく、技術と交易の都市だったことが感じられる。

ムラーノ島は、ヴェネツィア本島からも水上バスで訪れることができる。
時間があれば、後日あらためて散策するのもいい。
カラフルな街並み、静かな運河、ガラス工房のショーウィンドウ。サン・マルコとは違う、もうひとつのヴェネツィアの表情が見えてくる。


本島へ近づく時間
ムラーノ島を抜けると、水上バスは再び海上へ出る。
いよいよヴェネツィア本島が近づいてくる。
海上の標識が増え、船の数も少しずつ多くなる。水上バス、ボート、空港へ向かう船、観光客を乗せた船。水の上の交通が、だんだん賑やかになっていく。
ヴェネツィアへ近づいていることが、目に見えてわかる。
中世のヴェネツィアが外敵から守られた理由のひとつは、干潟や浅瀬、水路を熟知していたことにある。
海は、ただ広がっているだけではない。
安全に進める道があり、座礁する場所があり、知っている者だけが自在に動ける水の地形がある。
ヴェネツィア人は、その水の地形を味方につけていた。
水上バスで近づいていくと、そうした歴史を少しだけ想像できる。


サン・マルコへ到着する
水上バスは、本島の先端を回りながら、サン・マルコ方面へ向かう。
このあたりまで来ると、ヴェネツィアらしい景色が次々に現れる。
遠くに鐘楼が見え、船が行き交い、海に面した建物が並ぶ。
サン・マルコは、ヴェネツィアの政治と信仰の中心であり、共和国時代の玄関口でもあった。
海から近づくと、その意味がよくわかる。
ドゥカーレ宮殿、サン・マルコ寺院、鐘楼、広場へ続く水辺。
この都市は、海から見られることを意識してつくられていたのだと思う。
かつて使節や商人、巡礼者たちも、海の上からこの景色を見て、ヴェネツィアの力と美しさを感じたのだろう。
水上バスがサン・マルコに近づく時間は、その歴史のほんの小さな追体験のようでもある。

海の道から入るヴェネツィア
空港から水上バスでサン・マルコへ向かうと、少し時間はかかる。
けれど、その時間には大きな価値がある。
空港からすぐに街へ入るのではなく、海の上を進み、ムラーノ島を通り、水路標識を眺めながら、少しずつ本島へ近づいていく。
その過程の中で、ヴェネツィアが水の都であることを、自然に身体で理解できる。
水の上に道があり、船が人を運び、海が都市を守り、同時に世界へ開いていた。
ヴェネツィアは、海と切り離せない街である。
だからこそ、初めてヴェネツィアへ行く人にも、何度か訪れたことがある人にも、一度は海の道から入る旅をすすめたくなる。
もちろん陸路からも
もちろん、鉄道でヴェネツィアへ入る旅にも大きな魅力がある。
本土から列車でヴェネツィア・サンタ・ルチア駅へ到着し、駅を出た瞬間、目の前に大運河が広がる。
あの体験もまた、強烈である。
普通の街なら、駅前には道路やバス乗り場がある。けれどヴェネツィアでは、駅を出るとすぐに水がある。
そこから水上バスに乗ることもできるし、橋を渡って歩き始めることもできる。
映画『ツーリスト』でも、列車でヴェネツィアへ入る場面が印象的に描かれている。
海から入るヴェネツィア。
鉄道で入るヴェネツィア。
どちらにも、それぞれの旅情がある。
けれど、ヴェネツィア共和国の歴史を思うと、やはり海の道からサン・マルコへ近づく時間には、特別なものがある。
ヴェネツィアへ近づく記憶
旅の記憶には、目的地そのものだけでなく、そこへ向かう時間も残る。
ヴェネツィアの場合、その「近づいていく時間」がとても美しい。
空港を出て、水上バス乗り場へ向かう。
船に乗り、海へ出る。
水面に立つ標識を見ながら、ムラーノ島を通り、本島へ近づいていく。
そして最後に、サン・マルコの鐘楼やドゥカーレ宮殿が見えてくる。
その一連の時間が、ヴェネツィアという街への導入になっている。
水の都へは、水の道から入る。
それだけで、旅の記憶は少し深くなる。
ヴェネツィアは、到着した瞬間だけでなく、近づいていく時間までも美しい街である。



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