パリ北駅の夕暮れ|旅人が交差する駅と、40年ぶりの夫婦の記憶

北駅の向かいにあるビストロで

ある夏の日の夕方、僕は北駅の向かいにあるビストロのテラスで夕飯を取っていた。

一日の熱が少しずつやわらぎ、空気のなかに夕暮れの色が混じりはじめる時間だった。駅から出てくる人、駅へ向かう人、タクシーを探す人、誰かを待つ人。そんな人々の流れを眺めながら、僕はテラス席でゆっくりと食事をしていた。

そのとき、店のウェイターと話している横で、日本人の老夫婦が入ってくるのが見えた。

ウェイターが笑顔で迎える。

「ボンソワール、マダム、ムッシュ。お二人ですね。店内とテラス席、どちらがよろしいですか?」

奥さまが、外の席に目を向けた。

「いい夜だから、私たちもテラスで食事をしましょうよ」

そう言って、ご主人をやさしく誘うような仕草をした。きっと、テラスで気持ちよさそうに食事をしていた僕の姿も、少し目に入ったのかもしれない。

ウェイターはにっこり笑って、僕の隣の席へ二人を案内した。

「日本人同士だから、こちらの席をどうぞ」

「隣、すみません」

ご主人が穏やかに言った。

「どうぞどうぞ」

僕も自然にそう答えた。

パリの街角の夕景
麗しき思い出のパリ。Photo by HASEGAWA, Koichi

せっかくなので、少し話しかけてみた。

「日本からご旅行ですか?」

ご夫婦には、どこか品のある、やわらかな雰囲気があった。無理に会話を広げるつもりはなかったけれど、少しだけお話を聞いてみたくなった。

「ええ。パリに来るのは、40年ぶりなの」

奥さまがそう言った。

「当時、この北駅の近くにあった小さなホテルに、主人と泊まりましてね。ちょうどこのビストロに寄る前に、まだあのホテルがあるか見に行ってきたところなのよ」

ご主人も、懐かしそうに続けた。

「ホテルの名前は覚えていなかったんですが、場所だけはうろ覚えで覚えていましてね。記憶を頼りに、妻と今、歩いて行ってきたところなんです」

40年ぶりに、夫婦で訪れたパリ。

それだけで、胸があたたかくなるような話だった。

「40年ぶりのパリなんですね。そのホテルは、まだありましたか?」

僕がそう聞くと、奥さまは嬉しそうに微笑んだ。

「ええ。当時のままの佇まいでありましたわ。何も変わっていなかったわね」

そう言って、ご夫婦は顔を見合わせた。

「素敵な話ですね」

僕は、心からそう思った。

二人の間に流れている時間が、とても美しかった。40年前の若い夫婦と、目の前で穏やかに笑っている今の二人。その二つの時間が、パリの夕暮れのなかで、静かに重なっているように見えた。

シャンゼリゼの夜景
シャンゼリゼの夜。時間が経っても変わらない場所が、パリにはいくつも残っている。Photo by HASEGAWA, Koichi

40年前の部屋へ

しばらくすると、ご主人が、その40年前に泊まったホテルの話をしてくれた。

「北駅の近くというと、映画で有名な北ホテルのことですか?」

僕がそう聞くと、ご主人は首を横に振った。

「いえいえ、そういう有名なホテルではなくてね。北駅からすぐのところにある、ごく普通の小さなホテルなんです」

有名な場所でなくても、人には忘れられない場所がある。

観光案内に大きく載っていなくても、誰かの人生のなかでは、そこが特別な場所になる。むしろ、そういう場所のほうが、記憶の奥にやさしく残り続けるのかもしれない。

ご主人は、さらに話してくれた。

「ホテルに寄ってみたら、中を見たくなってね。妻と二人で少し覗いていたら、ちょうどホテルの支配人が私たちに気がついてくれまして。それで、外に出てきてくれたんです」

そして二人は、昔ここに泊まったことがあること、40年ぶりに夫婦でパリを訪れたこと、懐かしくなって立ち寄ってみたことを話したのだという。

「そうしたら、なんと当時泊まった部屋まで見せてくれましてね」

ご主人の声には、静かな喜びがにじんでいた。

奥さまも、やさしく微笑みながら言った。

「ほんと、当時のままで。嬉しくなってしまいました」

40年前に泊まった部屋へ、もう一度入る。

若かった日の自分たちが見た窓、荷物を置いた場所、旅の疲れをほどいたベッド。そこにもう一度立つというのは、どんな気持ちなのだろう。

きっとそれは、ただ懐かしいというだけではない。

長い年月をともに歩いてきた二人が、若い日の記憶をもう一度たどりながら、ここまで来た時間を確かめるようなひとときだったのだと思う。

ご主人が、グラスを手に取った。

「パリに乾杯ですね」

僕たちは、三人でパリの夜に乾杯した。

それは、本当にささやかな時間だった。

偶然隣り合っただけの旅人同士。名前も知らず、その後に連絡を取り合うわけでもない。けれど、その夜、そのご夫婦の40年ぶりのパリに、ほんの少しだけ立ち会えたことは、僕にとって忘れがたい思い出になった。

旅人が交差する場所

今でもパリ北駅に着くと、僕はまっすぐメトロに向かわず、いったん外へ出ることがある。

駅前の空気を吸い、車の音を聞き、人の流れを眺める。そして、北駅の向かいにあるあのビストロのほうへ、少しだけ目を向ける。

そこには、特別な観光名所があるわけではない。

けれど僕にとっては、あの夏の夕暮れと、40年ぶりにパリへ戻ってきたご夫婦の笑顔が残っている場所だ。通り過ぎていく人々のなかに、今もあの夜の声が少しだけ混じっているような気がする。

パリ北駅は、旅人が交差する場所だ。

出会いも、別れも、再会も、懐かしさも、すべてがほんの一瞬、この駅のまわりで重なっていく。

そして旅の記憶は、そんな何気ない場所にこそ、いつまでも残っているのかもしれない。

筆者について

長谷川浩一|美術史家・講師・執筆

旅先で出会った街角の光、夜の気配、建築や風景に残る時間の層を、
写真と言葉で記録しています。
東京では西洋美術史講座 Edogawa Art Salon, Tokyo を開き、
noteでも美術や旅にまつわる文章を書いています。

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